大阪市で生まれる。家が貧しく、体も弱かったことから小学校も満足に通えなかった。10歳で
大阪府庁に入り、勤務しながら夜学に通った。大阪市議だった七里清介に勤勉さを認められて、府庁を退職し七里の経営する海運会社に勤務する。
1908年頃から活発となった大阪―奈良間電気鉄道計画にも、七里とともに参画した。
1914年4月30日、待望の電気鉄道が
大阪上本町―
奈良間で開業した。しかし、利用者が少なく経営は安定しなかった。このため、金森は
宝山寺(生駒聖天)へ賽銭を借りに行き、乗車券印刷費の支払いや社員の給与などに充てたといわれ、宝山寺には金森が書いた借用証書が残されている。後、岩下が大軌の取引先かつその
頭取も勤めていた北浜銀行の取付け騒ぎなどを原因に退社、更に大軌の経営がきわめて悪く債権者が詰め掛けたこともあったことから他の幹部も次々に辞めてしまい、大軌には金森以外に数人が残るだけという有様になった。そのため、実業家
片岡直輝の元、大軌による生駒トンネル開削費用の支払い遅延が原因で倒産寸前に陥っていた大林組とセットで大軌の再建に乗り出し、新たな経営陣を送り込むことと増資がなされ、ようやく経営が軌道に乗るようになった。金森はこのとき経営不振の責任をとる形で一旦取締役を辞任したが、後に支配人として再び経営の実権を握るようになる。