株式-master.com [05/25update]

▼最新情報をCheck!!▼


「太田幸司」||株式-master.com [05/25update]

太田幸司 wikipedia|無料辞書

前のページ 1/2 次のページ
|出身地 = 青森県三沢市
|生年月日 =
|没年月日 =
|身長 = 176
|体重 = 74
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = 投手
|プロ入り年度 =
|ドラフト順位 = ドラフト1位
|初出場 = 1970年4月19日
|最終出場 = 1982年9月29日日本ハム戦(後楽園)
|経歴 =
青森県立三沢高等学校
近鉄バファローズ(1970 - 1982)
読売ジャイアンツ(1983)
阪神タイガース(1984)
-->
太田 幸司(おおた こうじ、1952年1月23日 - )は、元プロ野球選手(投手)、野球解説者スポーツキャスター青森県三沢市出身。

◆ 来歴・人物
三沢基地軍属をしていた日本人の父と白系ロシア人の母が一人っ子として育てる。三沢高校在学中に、野球部のエースとして1968年夏、1969年春・夏と阪神甲子園球場で行われた選抜高等学校野球大会全国高等学校野球選手権大会に連続出場を果たした。特に、1969年夏は、東北勢としては戦後初の決勝進出を果たした。その決勝戦、松山商業戦に2日間の熱投が行われた。1日目は、三沢は満塁サヨナラの好機を2回も逃すなどもあり、延長18回(試合時間:4時間16分)を戦い抜いて0-0の引き分けとなった。太田はこの試合を1人で投げぬいた(投球数:262球)(因みに、松山商のエース・井上明投手も1人で投げぬいている(投球数:232球))。再試合となった2日目の試合も全イニングを投げたが、2-4で敗戦。決勝戦計27イニング、準々決勝からの連続45イニングを一人で投げ抜いた熱投も実らず準優勝に終わった。
混血ゆえ、薄茶色の髪に色白で端正な顔立ちの美少年だったため人気があり、加えてこの決勝戦の熱投もあって、「コーちゃん」と呼ばれて女子高校生などに絶大な人気があった。そのため「悲劇ヒーロー」というよりも、「甲子園球児の元祖アイドル」というべき存在だったと言える。
同年のドラフト会議近鉄バファローズから1位指名され、プロ入り。近鉄も、指名の挨拶に佐伯勇オーナー自らが向かうなど最大限の敬意を払って迎えたという。コーちゃん人気はプロ入り後も全く衰えることなく、プロ入り初年の1970年は、一軍でほとんど実績がないにもかかわらずファン投票1位を獲得してオールスターゲームへの出場を果たす。1971年1972年も一軍での実績がさほどないままオールスターファン投票1位を獲得し続けていた。
やがてプロとしての実力も徐々につき始め、1973年には6勝、1974年には念願の2桁勝利(10勝)を上げる。1975年には自身最多となる12勝を上げた。1977年にも10勝を上げている。1979年には7勝を上げて球団初のリーグ優勝に貢献(ただし日本シリーズでの登板はなかった)。翌1980年のリーグ優勝には数字的な貢献はできなかったが、同年の日本シリーズでの登板を経験した。
その後は十分な成績を上げられず、1983年には読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍、さらに1984年には阪神タイガース鈴木弘規とのトレードで移籍したが、両球団での一軍登板は無く1984年のシーズン終了後に現役を引退した。
引退後は、毎日放送の野球解説者、スポーツキャスターとして活躍している。意外に親しみやすいキャラクターと話し好きな性格で好評を得ている。ただ、2009年3月まで年間を通してMBSラジオの帯番組に出演していた関係上、近畿広域圏以外での露出度は低い。また、無類のゴルフ好きとしても知られ、2005年7月5日から鳥取県大山ゴルフクラブで開催された日本アマチュア選手権に出場した(1打差で予選落ちの43位)。
また一人っ子ゆえ両親の扶養(現役後年より三沢から羽曳野市に家を作り両親を呼び寄せ同居、現在は両親とも鬼籍)などがあり、後年まで独身を通していたが、44歳にして太田自身の後援会会長の娘とできちゃった結婚し話題となった。現在子は3人とも4人ともいう。若手時代は東北なまりの残る青年であったが、現在では関西弁に完全になじんでいる。

◆ 年度別投手成績